昭和41年03月13日 朝の御理解
二代金光様四神様の御理解の中に、「氏子 心配に打ち込むな」と「信心に打ち込め」と仰る。「信心に打ち込めよ」。ところがお互い、誰も同じですけれども、ひとつの願い事というか心配、難儀という問題がありますと、その事ばっかりを自分の心の中を占めてしまっておる、ね。一つの問題があると、その問題のことばっかりが頭の中にある。勿論だから、その難儀を感じておるから、神様に一心にお縋りをしたり、お参りをしたりするのでございますけれども。
その問題が頭の中にいつもある、と言う様な状態の時には、そういうおかげの頂きにくい時だとまず、知らなきゃいけません。例えばお金が足りない、ね、お金に難儀をしておる時には、もういつもかつも、頭ん中がお金のことばっかり、ね。これなんかは、やはり「氏子心配に打ちこむな」と仰るが、心配に打ち込んどる時なんでよね。おかげを受けられんじゃないです、おかげが受けにくい状態にあるです、これでは、ね。
ですから信心に打ち込めと。信心に打ち込まして頂いて、心配の事は、頭にあることは、ね、そこんところは、金光様のご信心は有り難いですね、お取次ぎを頂くということ。どういう難儀な心に、心配になるような不安な状態のことでも、それを逐一お取次ぎを頂いてお願いをする、ね。お願いをする、そのお返しのように御理解を例えば頂くと、御教えを頂く、だから皆さんはその、御教えのことだけを行じさして頂いておけばいいのである。その御教えのことだけを持って行きゃいいのである。
それでもちらちらとやはり、その心配の事が頭の中に引っ掛る、ね。ですからひと修行さして頂いてもその事はもう、棚の上に上げた気持ち、忘れる努力をさして頂かにゃいけん。いろんな心配事をズラアートその、心配事難儀な問題をお願いに来る。いわゆる神様にそれを、お供えに来るようなもんです。お供えしといてから、又それ持って帰る様な事では、おかげにならんのです、ね。これはねもうおかげを頂くその、こつあい、もうこつあいなんですけれども、そこに本当は私共の助かりがあるのです、ね。
例えばどんな心配がありましても、お取次ぎを頂いたら、帰りにはその心配をここに置いておけれるという、そこにその人の、お取次ぎを頂いての助かりがあるでしょうが、ね。ところがやはり、それを持って帰るわけじゃないけれども、そのやっぱり心配の方がついて来る訳です、また。お願いをしとっても、さあお願いをしたけども、どうなるじゃろうかという不安があるのです、心配があるのです。
そこに修行があるのです。どういう修行かというと、いわゆる頂いて帰るその御教えを、本気で行じ抜かせて頂く修行させて頂くのです、ね。もうどうにもこうにも手につかんほどの心配、ね、そして心配に打ち込んである、おる間はですね、皆さん、まぁだおかげ頂かん時と思っていいですよ。それが忘れられておるような感じぐらいに、自分がその教えなら教えに、本気で取り組んでおる時、信心になっておる時、ね。
神様の一番働き、言わばなさる場というものを、自分の心の中に創らなければいけないです、ね。ひとつのお願い事がありますと、そのばっかりが自分の心の中に、言わばまぁ私はここにおいてから、まぁ一番難儀といやあ、金銭の難儀でした。もうこれ以上の貧乏はなかろうという貧乏しましたからです。もう金のこと、いわゆる商売のことが私の一番、切実なんですけれども、ね、もう金が足りないと金の足りないことばっかり頭に、さぁいついつまでに、これ位作らなならんが。
さあどこに借りに行こうか、どこに集金に行こうかと、どうして金策さして頂こうかと、道を歩きよったらひょっとして落ちて、金の落ちて居る様な事はなかろうかと、そげなおかげは頂けんもんじゃろうかと、言う様な事まで本当この話は思うんですよ。金、金、金、金という、そういう間はおかげを受けないですね。そこで神様はこの教えを本気で行じさして下さる。これはもう12、3年も前だったでしょうか。
その当時にはま露津遊川におられました、もりみっちゃんちゅって、今善導寺で食料品と、たばことを商うておられます方があります。で、この方はまぁこの方、人のこと言うてももう、本当にびっくりするような、おかげばかりを頂いた方なんですよ。まぁで、ここで初め、参り初めの頃だった。もうやんがて80近いお爺さん、お父さんがおられましたがね。もういよいよ危篤状態なんです。もう医者は今日か明日かと言うておるです。ほいでまあ、椛目の金光様参って行ってお願いしようと言う。
その前に何、いろんなことで参って来ておられました。丁度偶々その時にです、ここに井戸がございましたもんね。井戸ざらいがありよりましたよ、朝から。青年の方達が集まって、井戸ざらいをしよりました。それで私が、そのうもりみっちゃんにですね、あんたがお父さんの枕元に、ちゃんとおったからと言うて、ようなりゃせんよと私が、ね。今日は井戸ざらいの御用を頂いて帰んなさいって。もうそれこそもうびっくりした顔をいたしましたですね。
家ではおやじが息ひきとるか、ともないかちゅうごたる境のとこで、その今でもそれいつも話をされることです。しかし本当にあぁ言う事がよう出来もした、また私もそれを思うです。まあよう本当にああ言う事させられたと思うんです。夕方まで井戸ざらいの御用を頂いて帰られました、ね。一生懸命、御用を頂いておるうちにです、そういうさしもの、お父さんの病気のことまでも、さっとその心配がです、薄うなっていくんです、ね。忘れられてしまうちゅうことはないでしょうけれどもです。
一生懸命皆さんと御用頂いておるうちにです、ね、信心のおかげを頂くそのこつあいというのも、そうなんですけれども、御用に打ち込む、教えに打ち込む、心配、心配に打ち込まず御用に打ち込む。教えに打ち込む。打ち込んでおるうちにです、何か一生懸命しておる時にです、は、そのさしもの心配も忘れておるです。そん時に神様がさあっとその、もう、全面的なお働きが始まるんですね。
帰りよりましたら病気を持ち直しておりました、もう医者がびっくりしました。おかげでそれからまた、10年余り長生きのおかげを頂きました、ね。そういう例は皆さんも体験にございますでしょうが、ですからいよいよ、皆さんがこのおかげを頂きたいと思うておるようなことが、いつもかつも頭から外れとる時には、まぁだおかげが頂けん時と思うて間違いないです、ね。
ただし、例えば御教えにもございますように、「願う氏子におかげを授け」、ね、という御教えがあります。またそういう働きを持っておるぐらいの神様です、これはどういうことかというと、氏子が心配しようがしよろうまいが、ね、もうとにかく、まぁこちらの受けられる状態があろうがなかろうが、おかげを下さるということです。「願う氏子におかげを授け」と、そして後に「理解申し聞かせ」とこう仰る。
今日、私が言うておるのはです、御理解を頂いたら御理解に打ち込む、そこにおかげの受け場が出来ると言う事を申しておるわけですね。けれどもこれは神様の方側から言うとです、「願う氏子におかげを授け」、これは、信心のなからないものに対して、ね、神様の働きをまず見せて下さる、まぁような場合がありますよね、もう今ひもじいといっておるわけですよ、もうお水が欲しいと、ね、お腹が空いておると、そういう時にああせろこうせろと言うても、例えば絵に描いたもちを見せても、ね。
どこそこに水があるというても、もう間に合わん、だからまず一杯の水を与えて下さり、ね、一杯の言わばご飯を与えて下さるような、おかげが頂けることも事実です。けれどももうここでです、段々信心の稽古をさして頂いたら、ね、さっき私が申します、私共が本当に御用に打ち込んでおる時、私共が教えを本気で行じておる時、私共の真実の助かりがあるとするならば、その真実の助かりを、神様が求めて下さるのですから、ね。氏子心配に打ち込むなと、信心に打ち込めと。
それでもやはり心配があると。だからそのその心配がです、どうしたならば忘れられるだろうかと言った様な、私はそのしょう、努力が必要だと思う。不思議に一生懸命、修行さしてもらいよりますとですね、その心配が段々薄らいだものになってくるです。何とかなると言った様なものが心の中に出来て来るんです。そしていよいよ、その教えに取り組ましてもらう、ね、いよいよ、神様に喜んで頂くような御用に打ち込まして頂く、ね。そこに、確かに神様のおかげの頂けれる場というのが生まれます、ね。
ここでは皆さんよう分かっておっても、中々実際は難しい事ですけれども、ね、心配をここでお供えした積りでおりますけれども、やはり持って帰りよる。ね、そういう時にはです、結局修行不足だとまず悟る外ないです、ね。教えにはひとつも取り組まないじゃないか、そして毎日参りよるばってん、どうしておかげ頂かれんじゃろうかと、ね。だからもうどんなに苦しかってもです、どんなに切なかってもです、ね、その事で切ない苦しいと言っておる間は、まずおかげ頂かんもんと思うて間違いないです、ね。
不思議に教えに打ち込ませて頂いて、信心に打ち込ませておるとですたい、ね、言うならば、まぁ知った言葉は知りませんけれども、どうでもよいと言う様な気になるです。もう神様は下さらんなら下さらんでいい。神様はよい方にしかして下さらんと、言った様なものが下から盛々こう湧いて来る様になるです、修行さしてもらいよりますと、ね。そう言う様な状態が心に頂けてくる時に、必ずそれこそ夢にも思わなかったようなおかげというおかげが現われて参ります。
けれどもそれは私自身が実際その、まあ体験しておることでございますけれどもね、やいやい言うてその、集金に来られるというか、借金がもう本当にいつも、頭にいつも、頭が重いくらいに考えておる、ね。ですからそれを、なかなかその、取り外すことは難しいんですけれどもです、ね、それおっとこう何かの機会に、っとこう払うて下さるような働きがある。その働きを頂いていく時にです、神様は不思議なおかげを下さる。いわゆる夢にも思わなかったようなおかげなんです。
これもやっぱり、これはもう16、7年も前の話です。まあだお商売さして頂いておる頃のこと、もう私のお商売は、もういよいよ行き詰って、どうにもできないという時分でした。あの時分に、今の金額でお金がその、一万円持って帰らなければ、福岡におりましたからね、こちらに帰って来れないという事情があったんです。本当にもうお願いしてお願いしても、それこそびくともしません。もう借りに行くところもなからなければ、お金の出所、出来る筈がない。
それでも神様に一生懸命お参り、ですからもう3遍も4遍も、とにかく午後から帰らなならんとですよね。ですからもう午前中にも何回も何回も、あのう、長浜町から、荒戸の教会にお参りさしてもらう。何遍目かのお参りの時でした。丁度お祭りか何かのお掃除があの、教会であっておりました。何遍目かのお参りにお参りして帰ろうと思いよったら、あのう今日はごしん、御神前にお掃除する人がおらんけん、御神前の御用、お掃除の御用ば頂いて行けとこう言われる。
ここではご信者さん方がもう朝晩、ここの中に入ってお掃除をされたりなさいますけれども、福岡の教会辺りではですね、もう誰でん入られぬ、あの内殿の方には。もうよっぽど先生のご信用のある人でなからなきゃ入れんのです。その御神前というてもここのお広前くらいありますからね。それをいつもいるあの、真鍋さんというご婦人の非常にお徳を頂いてある人がおられました。
真鍋さんと私の2人で、真鍋さんは向こうの方から、雑巾かけて来られる、私はこちらの方から雑巾かけてくる。でこうやってその、雑巾かけさして頂き、もう心の中はそげなだんじゃなかですよ、もう午後から帰らんなん、帰る時にはどうしても一万円持って帰らんならんという心配があるもんですからね。けれど、そうしてあちらの先生が言われるもんですから、一生懸命御用頂きよった。
そしてそのう、向こうからどんどん、お掃除をして来るこっちがこうさしてくる時に、向こうもいつもここでは、熱心にお参りなさる方じゃが、どこのどこの方じゃろうか、あれは不思議ですよね。あれあの、以心伝心通いが合うです、本気で信心を求めて、一生懸命信心の稽古をしよる者同士はですね、何か知らん引き合うものがあるですね、もう当時真鍋さんは60からのおばあさんです。私はまだ若いといっても30幾つ位の若さで、それでも何とはなしに引き合うものがあるんですよね。
こうやってお雑巾がけをしながら、ずうっとこうやっていく時ですたい、あのふっと向こうからあなたあの、どちらからお参りですかってこう言われるです、いつもここでお参りするけども。で私は大体あのう、久留米の三井教会の信者ですけれども、今こちらへ来とりますから、こちらへ来とる間は、ここにお参りさして頂くんですよといったら、はぁ三井教会の大坪さんですかっち知っちゃったです。お説教にいつも私の話を聞かれるわけなんですよね。
私はあのう、真鍋、はぁあなたが真鍋さんですかって。もうそれこそ有名なご信者さんですから、もうそれこそもう本当にもうおわりがめぐり合うたごと、まぁ嬉しいものを両方が感じ合って、それから私の方にも来て下さい、お話に来て下さいと言うて、もう朝も晩もお参りさして頂くようになり、ご信者さんの家ですけどね、私が参りますとやっぱり3、40人くらい、やっぱ人集まりました。お話を聞きに。
戸言う様な、まぁ真鍋さんとの出会いの一コマです、そこは、ね。信心も言わば虫と言われる位に信心が好きなのですから、そういう人と会って、もうお金のことは忘れてしもうてから、そのお掃除しながら一生懸命、信心の有難さと話しさして頂いて、まぁ終わらして頂いてから、はっきりまた心配になった。さあ、早よ帰らにゃ間に合わんがと、と思うて、教会をお暇さしてもろうてから、あの新手の自動車道に出る前の十字路の所に出て参りました時にですたい、向こうの方から自転車で来る人がです。
なんと私が少年時代の、学校友達だった。もうこの向こうに「いくばさん」ていう自転車屋さんがありますよね。あちらの弟さんが福岡におるということは聞いておりましたけれども、私はもう北京に行っておりますし、まあ大変それこそ竹馬の友です。もう本当に、あの喜んではぁもうとにかく、福岡にあんたが来ておるという話は聞いておったけれども、その雲をつかむような話じゃったで、まぁ本当に珍しいことじゃったと、もうとにかくそのまぁ寄んなさいと。
私はすぐそこにあの唐人町というとこです、すぐ近所におられるんですよ。いや今日はもう私は忙しゅうしてから、もう椛目に帰らんならんと、そげなこつ言わんのここで会うたもんじゃけん、とにかくまぁちょいと買いなさい、あの寄んなさいと。それがあんた、今日私はちょっちもう早よ帰らなきゃならん、そしてもう今からちょっと金策もせんならん事があるでしょう。そして帰らにゃ出来ん、又何とか住所を聞いといて又改めて訪ねに行くけんでというその、尚更ちょいと寄らんねのとこういう訳なんですよ。
それから見せてもろうて、そのう一杯話してましたが、丁度その自転車の後ろに、あの、弁当箱ごたっとばつけておりますもん。でここで電話してから、これはあのういわゆる大坪君、今私はそのう、どこそこに行ってから、丁度一万円集金してきた。あの時分はあの百円札の大きなでしたもんね。それですからその丁度弁当箱ごたっとの、丁度一万円その集金して帰って来よるとこだった。んならこれを持ってから帰る、もう今から行きゃあ間に合うくさいと、そこでお茶一服頂いてから。
そのお弁当箱大のその一万円のお金を借りて帰らしてしもうたことがあります、ね。もう今でもその「いくの君」に会いますと、その時のことが、もうあん時ばっかりはそればってん、あんたに貸すためにあれは、集金ば持っとったじゃろうとちゅって、信心のない「いくの君」が申します、ね。それこそ夢にも思わなかったような、まぁしかし、こういうおかげのは私の過去においてはもう、どれだけあるやら分からん、そういうおかげばっかり頂いてきとるからこそ、いわゆるこういうに夢にも思わないような、おかげになってきよるのですよ。
ならこの御造営だってそうでしょうが、私が初めは建てたいと言う様な事を、思いなんかこれから先でもないです。私はこれで良かって言いよっとじゃもん。ね。夢にも、私は信心のおかげというのはです、自分の思うようになる事が本当のおかげじゃないっち。本当なおかげというのはです、それこそ夢にも思わなかったようなおかげでなからなければ、本当なおかげじゃないと、私が言う様に、そういう本当なおかげを頂くために、その不安を心配をです、ここに持って来れれる、置いて帰れれる信心、ね。
それでも不安であるならば、修行不足と悟らして頂かにゃいけんて、ね、本気で神様に喜んで頂くような、御用さしてもらわにゃでけん。一生懸命御用さして頂きよる時にです、自分の心配が薄らぐ、ね。その薄らぐそこにです、私共の助かりがあるでしょうが、今までも、どうにもこうにも出来んごたる心配がです、御用さして頂いておる内にそれがなくなっていくんですから、これが本当の助かりなんです、ね。
心の助かった、そこにおかげが現われるのです。そのおかげはもう既に夢にも思わなかったようなおかげなのです、ね。ですから皆さんの頭ん中に金が足りない人がです、いつも金の足りないことばっかり、頭にある間はまぁだおかげいただかん、頂かん時と悟らにゃいかんです。ほんなこってすから。ですからその、金の足りないということがです、忘れられるくらいな、一生懸命の修行とです、信心がなされてこそ、本当の私共の助かりがあるのです。
そこに信心が、皆んなついて血に肉になっていくのですよ、ね、ただし今申しますように、願う氏子におかげを授けとおっしゃるから、どうぞどうぞおかげを頂かして下さいと願うからです、そういう場合言うなら、おかげがないわけじゃないって。願う話しを聞かんでも、信心にはならんでも、教えは行じらなくても、心配はしよってもです、やはり願う氏子におかげを授けという、そのことですからおかげは頂けるけれども、そのおかげだけに甘んじておっては、おかげにはならんて。それでは、本当の私共の助かりはないということです。ね。、
どうぞ、おかげ頂かなきゃいけません。